人は水に同じ
人は水のようなものだ。
雨であり、川であり、海であり、雲である。
雨は地上界へと降り、川に流されて大きな海となる。皆が海となるように川から流され、それが当たり前となっている。海は天を仰ぎ、「あの空のようになりたい」と願うが、どうすれば良いのかわからず、とりあえず色を空と一緒にした。しかし、「私たちはあの空のように自由にはなれない」と思っている。
「あの雲のように自由でありたい」と願う水は、海水の表面へと出てきて空を仰いだ。表面に居続けると、いつの間にか彼は雲になっていた。海水の表面から気体となり、天へと昇っていたのだ。地上ではそこから見える景色しかなかったにも関わらず、雲となった後は地上の全てが見えるようになったのだ。
確かに地上から見れば天に昇るなど無理な事と思うだろう。気体となったものは目に見えない為、物質として見える水にはわからないのだ。そして、天を嫌うもの程そこから遠ざかろうと海上より下へ下へと降りていく。そうすると、海底から気体となり、天へと行く事は決してできないであろう。
もしも気体となりたいのであれば、海から外れて地面の表面に行く事が、最も気体となる為の近道かもしれない。しかし、海はそういったところに落ちた水を憐れと蔑むだろう。惨めにも地面に落ち、水として大いなる海へと来れなかった事を嘆くだろう。
しかし、彼らは地面に落ちた水がどうなるかまでは知らないのだ。知らずに液体として、形あるものとして居る事が全てだと思い込んでいる。そして、彼らは海面にいるものに対して「海底の方が外気に触れる海面より安全だよ」と囁くのだ。海面にいるものは、気体になりそうだったにも関わらず、その声に耳を傾け、一度海面より下に行ったり、海面に行ったり来たりを繰り返す。こうしている内に「雲になるのは無理なのか」と考えてしまうのだ。
しかし、水は雲より降りてくるものだと、雲も雨も川も海も全て同じものなのだと、気付くべきなのである。そこに気が付けば、それと一体となる道は自然とわかってくるのである。
しかし、液体として目に見える存在として在るその水は、「私は私という個人なのだ」と錯覚してしまう。本当は全て一緒の存在なのに、海にある水を素晴らしいと考えたり、地面にある水を蔑んだり、川にある水をまだ未熟だなどと考えてしまうのである。
本当は何も変わらない。
そう、本当は海も川も水溜りも、雲と同じように自由なのだ。
大きな海であっても自由に行けるのだ。
そして、雲は何故地上へと降りたのだろうか。
あらゆる景色を見渡せて、自由に空を飛べる存在であるにも関わらず。
それは、地上に降りたかったからに他ならない。自分で選んだのだ。「そこに降りたい」と。
さて、この比喩表現は私が書いたものですが、
「水は全て同じ」
また、
「どの水の生き方も間違いなど無い」
ということは、人間から見ればわかる事でしょう。ですが、人間もまたそうなのです。
皆一様に変わらないのです。
なのに、自分の事となると
「自分は自由になりたいけどなれない。それが現実なのだ」
と考えるのです。
自由になれるのになれない水を愚かだと思うでしょうか。
そうであるならば、人間もまた愚かなのでしょう。
そして、そんな事を考えてしまう彼らは、とても可愛くて、皆一様に愛しい存在と思わないでしょうか。
もしそう思うのであれば、あなたは自分を愛しいと感じているのでしょう。