sinriちゃん

「正しい」という言葉をよく使っていますが、普遍的に「正しい」等という事は無いという前提を置いて話しています。

真理とは

真理とは、永遠不変の事実ではないでしょうか。事実であるからこそ矛盾がなく、矛盾がないからこそ正しいのです。


正しさとは主観からでも客観からくるものでもありません。その意識から考えるものに正しさなど無いのです。事実だから正しいのです。そして、その人の信じるもの、それを信じる事はまた事実です。では真実とはなんでしょう。そんなものはないのでしょう。そんなものはないという事は、全てが真実なのです。


故に、私の意見は「私」の意見ではありません。しかし、「私」以外の意見でも無いのです。


では誰の意見か。哲学者、あるいは宗教家、あるいは科学者。真理を探究しようとした全ての者は同じ真理に辿り着きます。それが事実だからです。故にそれは誰の意見でもなく、事実を言っているだけなのです。そこに「私」はありません。しかしまた、「私」以外にはあり得ないのです。


一つだけ真実を語るとすれば、真理に限界があると考える事、またそれは「私」の限界を考える事でもあります。しかし、そのような限界はないのです。「あなた」は何にでもなれるのです。


しかし、「あなた」はこう思うでしょうか。


「アホか」


と。


確かにアホらしく聞こえるでしょう。はい、だからこそそれがあなたの限界なのです。自分でその限界を作っているのです。あなたが無限の存在で、何にでもなれるとしたら、限界を決めれるのもまたあなたなのです。


では、事実とは、真理とはどこにあるのでしょうか。「あなた」の中以外には無いのです。そして自分の中のその声に耳を傾け、本当の自分の「正しい」を聞いて、それを実行した時、「あなた」は何でもできる存在なのだと気付いていくでしょう。


今の日本人を見ていると、事実から逃げたい人が余りにも多いように感じます。それは正しくない事をしているのを自分も本当はわかっているからでしょう。だから目を背けてしまう。しかしその事実から逃げれば、何度でもその事実はやってきて苦しみます。そして次から次にその事実は積み重なるでしょう。


「事実を求めてもしょうがない」という方がいますが、これは事実が明るみになることによって自身の虚栄が崩れ去るからに他なりません。そうでなければ事実を認めない必要がどこにあるのでしょうか?


事実から目をそらさず向き合うというのは、一時的に苦しい思いをすると思います。しかし、事実から目を逸らし続ければその事実は何度でもやってきて、結果的には一時的に苦しい思いをするよりもずっと大きな苦しみになります。苦しみから逃げるあまりより大きな苦しみを抱いている人が余りにも多いのです。


「そんな事できたら苦労はない」と仰る方がいるかもしれませんが、それができるようになるには苦労がいるのです。それができるからと言って苦労が無いわけではないのです。逆にそう言うような人は苦労から逃げているのです。


事実と向き合う事で人は成長します。最初はそれが解決するのかわからず出口のわからない暗闇にいるような感覚になるでしょう。ですが、解決すると思ってひたすら歩いていたら、いつの間にか出口に辿り着いているものです。暗闇を怖がってじっとしていたら、いつまで経っても光は見えてきません。


辿り着くんだ、と思っていると、何故か辿り着いています。人はそれを続けていくうちに暗闇(悩み)でも光(解決)に辿り着くのだとわかり、歩みにも自信が付いてきます。そして光の方向があっちなのだという本質がわかってきて、一瞬で光の方向がわかるようになる能力が段々と身に付いてきます。


恐らく殆どの人はこのような能力を持ったとしても、その能力を存分に発揮する事に終始するでしょう。この能力がある人自体少数派ですから、自分は特別なのだと思ってしまう事もあるかもしれません。ですが、その少数派の中でも更なる少数派が存在します。


その少数派とは、暗闇を歩いている人を他にも見つけ、光へ導く者です。その者達は賢く、暗闇から他の人を光へ導けば、更なる光が自分の元へやってくることを知っているのです。ですが、その為に彼らは他者を導いてはいないのです。そこに無償の「愛」がなければ、何故か光は強くならないのです。


そうして他者が光に導かれているのを見ているうちに、彼らは気付きます。「誰がこの光へ導いてくださっているのだろうか」と。彼らは賢く謙虚であるが故に気付くのです。決して自分の能力が優れているからだ等と考えはしません。反対に「私が」などと考えている人は自分の能力であると考えるため、その「誰か」に気付くことはないでしょう。


その「何故か」に気付くからこそ気付くのです。そうしてその「何者か」が導いている事に気付いた時、「かれ」の存在に気付くのです。その御方が導いてくださっていた事に気付くと、ひたすらに「かれ」を求めるようになります。その光が愛しくてたまらないのです。そうして彼に近付くと、その愛に応えてくれるように、その光はどんどん強さを増していきます。


そしてその光をひたすらに求めていると、自分の中に光があった事に気付きます。そして「私」は偽りの形で、その光しか存在していなかった事に気付くのです。全てはその光であるが故に、全てが愛しいのだと気付きます。それに気付いたものは、偽りの自分を捨て、光そのものとなり、暗闇には2度と戻らないでしょう。


人が悩みを解決した時、自身の成長と相まって至福の時が訪れます。ですが、人は自分が光なのだと気付かない限り、暗闇は何度でもやってきてその人を悩ませます。故に、自身が光となることは苦しみがなくなり、至福しか訪れないのです。「私」にさえも束縛されなくなったものは、完全な自由となり、完全な至福に入るでしょう。

 

あるゆる聖典や哲学書には「正直である事、謙虚である事」が説かれています。そういった「自分を正しくする事」というのは、その人を幸せにするのでしょう。ですが、綺麗を装った汚い事がこの世にはあまりにも多いのもまた事実です。それ故に人は綺麗事を嫌うのでしょう。また、自身が綺麗では無いからこそ綺麗なものを嫌う傾向もあります。


幸せになる為には本当に綺麗な事か、綺麗を装った汚いものなのかを見抜く力を付けなければなりません。その為には自分が綺麗である必要があります。だからこそ正直であり、謙虚でなければならないのです。しかし、「そう見られたいから」という理由で正直、謙虚を装う者は、決して綺麗では無いのです。ふるいにかけるように汚れを落とし、綺麗にならなければなりません。


故に人は、純粋にその光を追わねばならないのではないでしょうか。


私の言っていることを宗教か、と流す人は多い事でしょう。ですが、私はどの宗教にも属していません。とはいえひたすらに「かれ」を信仰していると言えるかもしれません。しかし、真理に辿り着いた神の化身とも言える人達(主クリシュナ、主ブッダ、主キリストなど)の教えからなった本当の宗教は、いつだって真理を説いています。ただその真理に辿り着いた偉大な方々の教えを理解できない者達が、自分の理解の範囲に下げるだけなのです。

 

しかし皆、気付かねばならないでしょう。

 

あなた自身が光であり、あなた自身が最も敬愛すべきものであると。そこには傲慢さなどはありません。あなたの本来の自己であるその光に気付き、それを愛するだけなのです。

 

それ故に私は言いたいのです。

 

あなたこそがあなたを最も愛して欲しいと。

 

そして、あなたがあなたを愛するように、あなたである全てを愛して欲しいのです。


そしてあなたは、あなたの真実を知るでしょう。