sinriちゃん

「正しい」という言葉をよく使っていますが、普遍的に「正しい」等という事は無いという前提を置いて話しています。

真理とは、改めて

このブログを書き始めてまだ2日しか経っていませんが、誰かに見られる文章を起こす事によって、自分の文章の何故?を知る事ができました。


この世には「ただあるもの」しか存在せず、全てはその「ただあるもの」で、人間皆にその「内なる神」とも言うべきものを内在しているとしたら、我々は何故この有限の生に身を置くことにしたのでしょうか?


真理を探究し、悟りを得たものは、まるでその「内なる神」に気付き、それと一体となる事が生きる目的かのように瞑想し、あらゆる理論哲学を学び、欲を滅し、「我」を失くします。私もそのように「ただあるもの」と一体となる事だけを考えて動いていた時期がありました(私がこれからする話は決してそれをする事が悪いとかそういう話ではありません。知識をたくさん蓄える事、不要な意識を取り除いて本当の自分が望む行動をする事、欲を滅して本来の自分の目的を達成する事、全て素晴らしい事だと思います。それを大前提とした話です)。



ここで一つ疑問が生じないでしょうか。


皆が元々その「ただあるもの」で、この物質次元に降りて肉体と意識を持った事によって、その「神」であった事を忘れてしまったのだとしたら、何故私達はそんな事をしたんでしょうか?


真理に辿り着き「神」になるというのは、巡り巡って真理に辿り着き、結局はそこに戻るという事にならないでしょうか?だとしたら元々一体である「神」と一体になることを目的とするというのは、「じゃあ何のためにここに来たの?」という事にならないでしょうか。


全てを超越し、全てである「ただあるもの」は、どこまでもニュートラルで何に対しても情など持たない事は明白でしょう。だとするのであれば、「かれ」を信仰しようが恨もうが、それに応えるという事は無いはずです。


自分達も「かれ」の一部であり、「かれ」なのだとすれば、自分を愛し、自分を知る事で本来の力をこの世界でも発揮するのでしょう。自分も「かれ」なのですから。


しかし、人間は自分達は「かれ」に劣る存在だと認識してしまっています。


あなたを束縛するものなんて何も無いはずです。もしあるのだとすれば、自分自身で自分を束縛しているのでしょう。

「私はかれをこんなにも信仰しているのに何故かれは応えてくれないのだ。私はかれに愛されていないのか」
真理への探求者には、このように考える人がいます。

これは自分を信仰しているにも関わらず、自分がそれに応えようとしていないだけでは無いでしょうか。自分を愛し、自分がそれに応えれば、「あなた」のしたい事はできるのです。

そして自由に考えてみて欲しいのです。この「私」を心から楽しみ、体験する為に「あなた」はここに来ることを望んだのでは無いでしょうか?

誰があなたをここに連れてくる責任を負うのでしょうか。「かれ」が「私」なのだとしたら、「あなた」以外に「あなた」がここに来ることを選ぶ責任を持っている人などいないはずです。

「かれ」が選んだのですか?だとしたら「あなた」が選んだ事になるでしょう。

至福しか訪れないような状態から「あなた」は何故ここに来たのでしょうか。「ここで生きたかった」からでは無いでしょうか。

だとしたらあなたがここでする事は何でしょうか。また元に戻る事ですか?そう思うのならそうなのかもしれません。

「神の意志に沿って行動する」事ですか?だとしたらあなたが「神」なのだから、あなたの意志に沿って行動すれば良いのです。何もあなたを邪魔するものなどあり得ません。また、邪魔があるというのならそれはあなたが望んだ事でしょう。

真理とは何でしょうか。

この世界が幻なのだとしたらそんなものは無いのでしょう。

言い換えれば、全ては真理なのです。

「あなた」が語る真理も「私」が語る真理も全ては真理なのです。

だからこそ、「私」の真理を探せば良いのです。

他の誰かの真理はその「私」の真理です。それもまた真理です。ですが、「あなた」が他の「私」の真理に縛られる必要は何一つありません。ですから私の言う「真理」を鼻で笑おうがそれで良いのです。

「私」が「かれ」なのだとしたら、「私」を失くすという事は、「かれ」を失くそうとする事でもあります。そしてそれをする事も別に間違いではありません。

「かれ」のする事に何一つとして間違いは無いですし、また正しい事もありません。

ですから、「あなた」のする事に間違いなど何もありませんし、また全てが正しいのでしょう。



「あなた」が少しでも自由にありますように。