sinriちゃん

「正しい」という言葉をよく使っていますが、普遍的に「正しい」等という事は無いという前提を置いて話しています。

あなたの悩みはどこから来る

悩みを持つ人は、世の中には多い事かと思います。

ですが、同じ境遇になっても悩む人と悩まない人がいます。この違いは一体何なのでしょうか?

これを解くためには、そもそも悩みとは何なのかを知らなければなりません。何故悩むのでしょうか?

悩みとは、概ねして自己の内面にある「事実」に向き合いたくないという時に起こるのでは無いでしょうか。その時、人間はその辛い状況から逃れるため、自己を正当化をしようとします。例えば、

「モテない」

「良いところに就職できない」

これらを正当化しようとすると、

「顔が不細工だからしょうがない。もっと良い顔に産まれていれば…」


「学歴低いからしょうがない。もっと良い大学に入れば良かった…」

他にも自己を正当化をする理由はたくさんあると思いますが、こういう理由で正当化をする人がいるのも事実でしょう。それでは、この2つの悩みから「事実」を見ていきたいと思います。

まず「モテない」ですが、これは単純にその人に「魅力がない」からでしょう。

「顔が不細工」というのは、「先天的なもののせいだからしょうがない」としているのです。先天的なもののせいにしておけば、何も変わろうとしていない自分を正当化できますから。

そのため、「顔が不細工だからモテる努力をしてもしょうがない」と正当化して今の現状に留めようとするのです。これによって、「悩んでいるのに何も努力していない自分」を正当化して辛さを緩和しようとします。

現に、顔があまりよろしくなくても、面構えや姿勢、清潔感などある程度の見出しなみと、何よりも内面から滲み出る魅力でモテる人などたくさんいるでしょう。

そうです、その「内面の魅力も無い」という「事実」から目をそらす為に外側の外見のせいにするのです。


そして「就職できない、学歴があれば…」という悩みについてですが、これも事実は単純なもので、その人に就職できるだけの「実力がない」だけの話です。

「学歴」という自分の外側にある力が無い事のせいして、自分の内側にある実力が不足しているという「事実」から目をそらしているわけですね。

「学歴」のせいにしているという事は、その人は「学歴」以外の魅力もないという事になりますから、その中でも外側の力のせいにする事によって、自分の内側を守っているのです(むしろ傷付けているのですが)。

現に、そのような「学歴」という外側の力がなくても、自分の内にある実力で仕事を貰っている人などたくさんいます。

このような悩みの全ては、自分の内面を見ようとしない為に起こるのです。

さて、事実と間違った認識をしていると、このように違う例が出てきて矛盾が生じるのですが、そのような情報は自分を正当化する為に排除していきます。もしくは「例外」として扱うでしょう。そして同じように「不細工でモテない」「学歴がなくて就職できない」人達を見て、自分の考えは間違っていないと、自分の考えを強化していきます。こうする事によって自分の考えと同じ考えしか見ようとしなくなり、結果的にかなり狭い視野の中生きて行く事になります。

成長する為に「努力」しようともせず、小さい頃と変わらない自分をただ正当化して生きていくのです。

「努力」というワードを出しましたが、これは「頑張ればなんとかなる」などと言う根性論からくる話ではありません。ただ「事実」を直視して、そこから解決を導き出し、その解決の為に「努力」をすれば、その事実は自分にとって辛い事ではなくなる、という話なのです。

その「事実」を直視していない状態で頑張ったところで、それは解決策もないまま頑張っている事にならないでしょうか。そんな状況では当然解決はできず、挫折して「努力をしても無駄だ」と自分に制限をかけるだけになってしまいます。

このような制限を「学んだ」とする事で、事実から目を逸らしている自分を更に正当化します。そしてそれを「経験」と呼ぶ人がいますが、これは事実と間違った認識をしているが故に、その事実による苦しみを何度も味わうだけの「体験」になるのです。

これは学びではありません。ただの勘違いです。

「学び」に苦しいものなど何一つとして無いのです。

あなたの昔の状態でもそれは苦しいものだったのではないでしょうか?だとしたら何も変わっていないのではないでしょうか。

変わっていないその苦しんでいる現実を「学び」と言う事で、何も変わっていない自分を正当化しているのです。

それを乗り越える体験をして、現状を変える力を身に付けなければ、何一つとして「学び」と言って良いものにはなりません。

このように自分を苦しめる「事実」に対して次から次に目をそらす事により、どんどんその事実は他の事実と一緒に積み重なっていきます。こうなれば、その「事実」による苦しみはどんどん大きくなってきて、その苦しみから死を選ぶ事もあるでしょう。

それは、自分で自分を苦しめる事にならないでしょうか。

確かに、自分の醜い部分とも言えるような内面の「事実」を直視する事は、かなり辛いことだと思います。一時的に見れば、そこから目をそらす方が辛くないかもしれません。ですが、その自分を苦しめる「事実」というのは、一つではない事と思います。ゆえに、目をそらし続けると、どんどん苦しみが増えていくのです。

そこで自分の内面にある「事実」を直視すれば、自ずと解決策は見えてきます。ただその自己の内にある「事実」を受け入れるだけなのです。その自己の内面を受け入れれば、自己を苦しめる自分は消え、「事実」を直視する力を手に入れます。そしてその力によって次にまた同じ「事実」が来たとしても、簡単に乗り越えられるようになるのです。そうすればその「事実」が再びやってきた時、それにより苦しむ事はなくなります。

これが「学び」なのです。今の自分よりもより良い自分になっているからこそ、学んだと言えるのです。

そう考えると、一時的に辛さを緩和しようと自己の内面の「事実」から目をそらすより、直視してそれを受け入れ、解決策を見出した方が、よっぽど辛くはなくならないでしょうか。

これは、自分を苦しめる「事実」から目をそらしてきた人には、ピンと来ない話かもしれません。恐らく、自分が「事実」から目をそらしていること自体、気付いていない人が大半でしょう。

ですが、もしもその事に気付いて「事実」を直視した時、あなたの世界は変わります。

あなたの目に映るのは、間違った認識の濁ったフィルターを通して見る景色です。これでは現実は歪んで見えるでしょう。そこから何も濁っていない、とても澄んだキラキラした世界へと変わるのです。こうなれば、あなたはあらゆるものを見る時に、その姿のありのままを見る事ができるでしょう。

また「事実」を乗り越える事によって、自分の現状を覆した体験を得られます。ここから、自分の望みを叶える経験が身につきます。その経験から自信はどんどん付いていき、望んだ事は何だって叶える力をあなたは手にするのです。

あなたが悩む理由は何でしょうか?

それは、案外悩むに足らない事だったりします。事実、悩みを乗り越えた人は「何でこんなことで悩んでたんだろう?」と思うものです。それはもうその人にとって悩みではなくなったのだから当然の事なのですが、その当然の事をしようとしていない人があまりにも多すぎるのです。

「できない」のでは無いのです。「しようとしない」だけなのです。また、「できない」と思うから「しようとしない」のです。

「自分にはできない」と思いながら何かを自分で成し遂げた人がいるでしょうか。そのように思いながらできるまでやり続けるのは相当辛く、続くものではないのではないでしょうか。

「自分はこれができる」と思うからそれができるように行動するのではないでしょうか。そして、できるようになった時はとても嬉しいですし、できるようになった自分を想像するとワクワクして、どんな時でも楽しいものになります。

自分で自分を苦しめないでください。

あなたの悩みはどこからくるのでしょうか。

それは、あなたの内側にしか無いのです。

それを見つめるだけで良いのです。


あなたの人生は、もっと楽しいものであって良いのです。

あなたが楽しく過ごせば、きっと周りの人も楽しくなります。周りの人が楽しくなるのであれば、自分ももっと楽しくなるでしょう。


だからこそ、私は私の為にあなたが楽しく過ごしてくださることを、願っています。




最後に、自己の内面を他者を通して見ることで、その自己にある醜い部分を批難してしまう人間が多く、これによる悩みも多いと思います。これも結局は今回の話と変わりはしないのですが、またの機会に詳しくお話ししたいと思います。

それでは。

人は水に同じ

人は水のようなものだ。

雨であり、川であり、海であり、雲である。

雨は地上界へと降り、川に流されて大きな海となる。皆が海となるように川から流され、それが当たり前となっている。海は天を仰ぎ、「あの空のようになりたい」と願うが、どうすれば良いのかわからず、とりあえず色を空と一緒にした。しかし、「私たちはあの空のように自由にはなれない」と思っている。

「あの雲のように自由でありたい」と願う水は、海水の表面へと出てきて空を仰いだ。表面に居続けると、いつの間にか彼は雲になっていた。海水の表面から気体となり、天へと昇っていたのだ。地上ではそこから見える景色しかなかったにも関わらず、雲となった後は地上の全てが見えるようになったのだ。

確かに地上から見れば天に昇るなど無理な事と思うだろう。気体となったものは目に見えない為、物質として見える水にはわからないのだ。そして、天を嫌うもの程そこから遠ざかろうと海上より下へ下へと降りていく。そうすると、海底から気体となり、天へと行く事は決してできないであろう。

もしも気体となりたいのであれば、海から外れて地面の表面に行く事が、最も気体となる為の近道かもしれない。しかし、海はそういったところに落ちた水を憐れと蔑むだろう。惨めにも地面に落ち、水として大いなる海へと来れなかった事を嘆くだろう。

しかし、彼らは地面に落ちた水がどうなるかまでは知らないのだ。知らずに液体として、形あるものとして居る事が全てだと思い込んでいる。そして、彼らは海面にいるものに対して「海底の方が外気に触れる海面より安全だよ」と囁くのだ。海面にいるものは、気体になりそうだったにも関わらず、その声に耳を傾け、一度海面より下に行ったり、海面に行ったり来たりを繰り返す。こうしている内に「雲になるのは無理なのか」と考えてしまうのだ。

しかし、水は雲より降りてくるものだと、雲も雨も川も海も全て同じものなのだと、気付くべきなのである。そこに気が付けば、それと一体となる道は自然とわかってくるのである。

しかし、液体として目に見える存在として在るその水は、「私は私という個人なのだ」と錯覚してしまう。本当は全て一緒の存在なのに、海にある水を素晴らしいと考えたり、地面にある水を蔑んだり、川にある水をまだ未熟だなどと考えてしまうのである。


本当は何も変わらない。

そう、本当は海も川も水溜りも、雲と同じように自由なのだ。

大きな海であっても自由に行けるのだ。

そして、雲は何故地上へと降りたのだろうか。

あらゆる景色を見渡せて、自由に空を飛べる存在であるにも関わらず。



それは、地上に降りたかったからに他ならない。自分で選んだのだ。「そこに降りたい」と。





さて、この比喩表現は私が書いたものですが、

「水は全て同じ」

また、

「どの水の生き方も間違いなど無い」

ということは、人間から見ればわかる事でしょう。ですが、人間もまたそうなのです。

皆一様に変わらないのです。

なのに、自分の事となると

「自分は自由になりたいけどなれない。それが現実なのだ」

と考えるのです。


自由になれるのになれない水を愚かだと思うでしょうか。

そうであるならば、人間もまた愚かなのでしょう。

そして、そんな事を考えてしまう彼らは、とても可愛くて、皆一様に愛しい存在と思わないでしょうか。

もしそう思うのであれば、あなたは自分を愛しいと感じているのでしょう。

真理とは、改めて

このブログを書き始めてまだ2日しか経っていませんが、誰かに見られる文章を起こす事によって、自分の文章の何故?を知る事ができました。


この世には「ただあるもの」しか存在せず、全てはその「ただあるもの」で、人間皆にその「内なる神」とも言うべきものを内在しているとしたら、我々は何故この有限の生に身を置くことにしたのでしょうか?


真理を探究し、悟りを得たものは、まるでその「内なる神」に気付き、それと一体となる事が生きる目的かのように瞑想し、あらゆる理論哲学を学び、欲を滅し、「我」を失くします。私もそのように「ただあるもの」と一体となる事だけを考えて動いていた時期がありました(私がこれからする話は決してそれをする事が悪いとかそういう話ではありません。知識をたくさん蓄える事、不要な意識を取り除いて本当の自分が望む行動をする事、欲を滅して本来の自分の目的を達成する事、全て素晴らしい事だと思います。それを大前提とした話です)。



ここで一つ疑問が生じないでしょうか。


皆が元々その「ただあるもの」で、この物質次元に降りて肉体と意識を持った事によって、その「神」であった事を忘れてしまったのだとしたら、何故私達はそんな事をしたんでしょうか?


真理に辿り着き「神」になるというのは、巡り巡って真理に辿り着き、結局はそこに戻るという事にならないでしょうか?だとしたら元々一体である「神」と一体になることを目的とするというのは、「じゃあ何のためにここに来たの?」という事にならないでしょうか。


全てを超越し、全てである「ただあるもの」は、どこまでもニュートラルで何に対しても情など持たない事は明白でしょう。だとするのであれば、「かれ」を信仰しようが恨もうが、それに応えるという事は無いはずです。


自分達も「かれ」の一部であり、「かれ」なのだとすれば、自分を愛し、自分を知る事で本来の力をこの世界でも発揮するのでしょう。自分も「かれ」なのですから。


しかし、人間は自分達は「かれ」に劣る存在だと認識してしまっています。


あなたを束縛するものなんて何も無いはずです。もしあるのだとすれば、自分自身で自分を束縛しているのでしょう。

「私はかれをこんなにも信仰しているのに何故かれは応えてくれないのだ。私はかれに愛されていないのか」
真理への探求者には、このように考える人がいます。

これは自分を信仰しているにも関わらず、自分がそれに応えようとしていないだけでは無いでしょうか。自分を愛し、自分がそれに応えれば、「あなた」のしたい事はできるのです。

そして自由に考えてみて欲しいのです。この「私」を心から楽しみ、体験する為に「あなた」はここに来ることを望んだのでは無いでしょうか?

誰があなたをここに連れてくる責任を負うのでしょうか。「かれ」が「私」なのだとしたら、「あなた」以外に「あなた」がここに来ることを選ぶ責任を持っている人などいないはずです。

「かれ」が選んだのですか?だとしたら「あなた」が選んだ事になるでしょう。

至福しか訪れないような状態から「あなた」は何故ここに来たのでしょうか。「ここで生きたかった」からでは無いでしょうか。

だとしたらあなたがここでする事は何でしょうか。また元に戻る事ですか?そう思うのならそうなのかもしれません。

「神の意志に沿って行動する」事ですか?だとしたらあなたが「神」なのだから、あなたの意志に沿って行動すれば良いのです。何もあなたを邪魔するものなどあり得ません。また、邪魔があるというのならそれはあなたが望んだ事でしょう。

真理とは何でしょうか。

この世界が幻なのだとしたらそんなものは無いのでしょう。

言い換えれば、全ては真理なのです。

「あなた」が語る真理も「私」が語る真理も全ては真理なのです。

だからこそ、「私」の真理を探せば良いのです。

他の誰かの真理はその「私」の真理です。それもまた真理です。ですが、「あなた」が他の「私」の真理に縛られる必要は何一つありません。ですから私の言う「真理」を鼻で笑おうがそれで良いのです。

「私」が「かれ」なのだとしたら、「私」を失くすという事は、「かれ」を失くそうとする事でもあります。そしてそれをする事も別に間違いではありません。

「かれ」のする事に何一つとして間違いは無いですし、また正しい事もありません。

ですから、「あなた」のする事に間違いなど何もありませんし、また全てが正しいのでしょう。



「あなた」が少しでも自由にありますように。

真理とは

真理とは、永遠不変の事実ではないでしょうか。事実であるからこそ矛盾がなく、矛盾がないからこそ正しいのです。


正しさとは主観からでも客観からくるものでもありません。その意識から考えるものに正しさなど無いのです。事実だから正しいのです。そして、その人の信じるもの、それを信じる事はまた事実です。では真実とはなんでしょう。そんなものはないのでしょう。そんなものはないという事は、全てが真実なのです。


故に、私の意見は「私」の意見ではありません。しかし、「私」以外の意見でも無いのです。


では誰の意見か。哲学者、あるいは宗教家、あるいは科学者。真理を探究しようとした全ての者は同じ真理に辿り着きます。それが事実だからです。故にそれは誰の意見でもなく、事実を言っているだけなのです。そこに「私」はありません。しかしまた、「私」以外にはあり得ないのです。


一つだけ真実を語るとすれば、真理に限界があると考える事、またそれは「私」の限界を考える事でもあります。しかし、そのような限界はないのです。「あなた」は何にでもなれるのです。


しかし、「あなた」はこう思うでしょうか。


「アホか」


と。


確かにアホらしく聞こえるでしょう。はい、だからこそそれがあなたの限界なのです。自分でその限界を作っているのです。あなたが無限の存在で、何にでもなれるとしたら、限界を決めれるのもまたあなたなのです。


では、事実とは、真理とはどこにあるのでしょうか。「あなた」の中以外には無いのです。そして自分の中のその声に耳を傾け、本当の自分の「正しい」を聞いて、それを実行した時、「あなた」は何でもできる存在なのだと気付いていくでしょう。


今の日本人を見ていると、事実から逃げたい人が余りにも多いように感じます。それは正しくない事をしているのを自分も本当はわかっているからでしょう。だから目を背けてしまう。しかしその事実から逃げれば、何度でもその事実はやってきて苦しみます。そして次から次にその事実は積み重なるでしょう。


「事実を求めてもしょうがない」という方がいますが、これは事実が明るみになることによって自身の虚栄が崩れ去るからに他なりません。そうでなければ事実を認めない必要がどこにあるのでしょうか?


事実から目をそらさず向き合うというのは、一時的に苦しい思いをすると思います。しかし、事実から目を逸らし続ければその事実は何度でもやってきて、結果的には一時的に苦しい思いをするよりもずっと大きな苦しみになります。苦しみから逃げるあまりより大きな苦しみを抱いている人が余りにも多いのです。


「そんな事できたら苦労はない」と仰る方がいるかもしれませんが、それができるようになるには苦労がいるのです。それができるからと言って苦労が無いわけではないのです。逆にそう言うような人は苦労から逃げているのです。


事実と向き合う事で人は成長します。最初はそれが解決するのかわからず出口のわからない暗闇にいるような感覚になるでしょう。ですが、解決すると思ってひたすら歩いていたら、いつの間にか出口に辿り着いているものです。暗闇を怖がってじっとしていたら、いつまで経っても光は見えてきません。


辿り着くんだ、と思っていると、何故か辿り着いています。人はそれを続けていくうちに暗闇(悩み)でも光(解決)に辿り着くのだとわかり、歩みにも自信が付いてきます。そして光の方向があっちなのだという本質がわかってきて、一瞬で光の方向がわかるようになる能力が段々と身に付いてきます。


恐らく殆どの人はこのような能力を持ったとしても、その能力を存分に発揮する事に終始するでしょう。この能力がある人自体少数派ですから、自分は特別なのだと思ってしまう事もあるかもしれません。ですが、その少数派の中でも更なる少数派が存在します。


その少数派とは、暗闇を歩いている人を他にも見つけ、光へ導く者です。その者達は賢く、暗闇から他の人を光へ導けば、更なる光が自分の元へやってくることを知っているのです。ですが、その為に彼らは他者を導いてはいないのです。そこに無償の「愛」がなければ、何故か光は強くならないのです。


そうして他者が光に導かれているのを見ているうちに、彼らは気付きます。「誰がこの光へ導いてくださっているのだろうか」と。彼らは賢く謙虚であるが故に気付くのです。決して自分の能力が優れているからだ等と考えはしません。反対に「私が」などと考えている人は自分の能力であると考えるため、その「誰か」に気付くことはないでしょう。


その「何故か」に気付くからこそ気付くのです。そうしてその「何者か」が導いている事に気付いた時、「かれ」の存在に気付くのです。その御方が導いてくださっていた事に気付くと、ひたすらに「かれ」を求めるようになります。その光が愛しくてたまらないのです。そうして彼に近付くと、その愛に応えてくれるように、その光はどんどん強さを増していきます。


そしてその光をひたすらに求めていると、自分の中に光があった事に気付きます。そして「私」は偽りの形で、その光しか存在していなかった事に気付くのです。全てはその光であるが故に、全てが愛しいのだと気付きます。それに気付いたものは、偽りの自分を捨て、光そのものとなり、暗闇には2度と戻らないでしょう。


人が悩みを解決した時、自身の成長と相まって至福の時が訪れます。ですが、人は自分が光なのだと気付かない限り、暗闇は何度でもやってきてその人を悩ませます。故に、自身が光となることは苦しみがなくなり、至福しか訪れないのです。「私」にさえも束縛されなくなったものは、完全な自由となり、完全な至福に入るでしょう。

 

あるゆる聖典や哲学書には「正直である事、謙虚である事」が説かれています。そういった「自分を正しくする事」というのは、その人を幸せにするのでしょう。ですが、綺麗を装った汚い事がこの世にはあまりにも多いのもまた事実です。それ故に人は綺麗事を嫌うのでしょう。また、自身が綺麗では無いからこそ綺麗なものを嫌う傾向もあります。


幸せになる為には本当に綺麗な事か、綺麗を装った汚いものなのかを見抜く力を付けなければなりません。その為には自分が綺麗である必要があります。だからこそ正直であり、謙虚でなければならないのです。しかし、「そう見られたいから」という理由で正直、謙虚を装う者は、決して綺麗では無いのです。ふるいにかけるように汚れを落とし、綺麗にならなければなりません。


故に人は、純粋にその光を追わねばならないのではないでしょうか。


私の言っていることを宗教か、と流す人は多い事でしょう。ですが、私はどの宗教にも属していません。とはいえひたすらに「かれ」を信仰していると言えるかもしれません。しかし、真理に辿り着いた神の化身とも言える人達(主クリシュナ、主ブッダ、主キリストなど)の教えからなった本当の宗教は、いつだって真理を説いています。ただその真理に辿り着いた偉大な方々の教えを理解できない者達が、自分の理解の範囲に下げるだけなのです。

 

しかし皆、気付かねばならないでしょう。

 

あなた自身が光であり、あなた自身が最も敬愛すべきものであると。そこには傲慢さなどはありません。あなたの本来の自己であるその光に気付き、それを愛するだけなのです。

 

それ故に私は言いたいのです。

 

あなたこそがあなたを最も愛して欲しいと。

 

そして、あなたがあなたを愛するように、あなたである全てを愛して欲しいのです。


そしてあなたは、あなたの真実を知るでしょう。

宗教の存在理由。正しいとは?

何故人は宗教が必要なのかというのは、日本人は特に興味がない為に間違った認識をしてしまっている事と思います。

 

よく「宗教に頼る人間は弱い」という意見を耳にします。

 

確かに、精神的に弱っている人間に漬け込むカルトはあまりにも多いのは事実でしょう。

 

ですが、その認識は間違っています。

「弱い人間が宗教に頼る」のではなく、

「弱い人間がカルトに漬け込まれる」

というただこれだけの事なのです。

 

とはいえ宗教を信仰する人間が強いというわけではありませんし、宗教を信仰しない人間が弱いというわけでもありません。

 

私などは特定の宗教を信仰していない為、宗教があるから強いわけではないという事はよくわかります。

 

では強い人間とは何でしょう。

 

私は「正しい」事だけをする人間こそが強いのだと思います。

 

何故かと言えば、彼らは「正しい」事をするだけなので、権力者の権威、大富豪の財力、魅力的な異性の誘惑、服従的な暴力であろうと彼らを操る事はできません。

 

かのマハトマ・ガンジーは、その絶対的な「正しさ」から大英帝国に決して屈せず、どんな服従的なものであろうと彼を操る事はできませんでした。

 

また、彼らは嘘を吐きませんから、正直にあるがままでも弱味など無いのです。

 

反対に嘘を吐く人間は、その虚栄を突かれてしまえば脆くも崩れ去ってしまう弱い存在です。

 

どの聖典にも、そのような人間を弱くする誤った行いと、人間を強くする正しい行いが書かれています。

 

何が正しいのかわからない人間というのは、宗教によってその正しさを知るべきだと私は思います。

 

宗教に属していない私が言っても説得力は無いかもしれませんが、私の権威などどうでも良いのです。

 

その言葉が正しいかをただ考えてください。

 

私を信じる必要などどこにも無いのです。

 

まあ信じろと言っても信じられないでしょうけど。。

 

私は世界の全ての人に、正しく強い人間になっていただきたいと、願うばかりです。

日本の宗教意識

どの宗教をも信仰していると言っても過言ではないと、前回述べましたが、「どの宗教も」と言うのは間違いでした。

 

宗教は、度々民衆を扇動する道具として使われていたという事もまた事実です。

 

そのような意図で使われていた宗教は、真理と一体となった偉大な覚者達の教えを穢し、争いを起こすという結果を生み出してしまいました。

 

近代の日本では特にそのように騙されてしまった人々があまりにも多く、人々は「宗教っぽい」=「カルトっぽい」と認識するようになってしまったのでしょう。

 

国家神道による民意の扇動。そしてその崩壊により宗教を失った国民は、次々に新興宗教に騙されていきました。

 

近代の日本はそのような歴史がありますから、宗教にある種の拒否反応をしてしまうというのはよくわかる話です。

 

ですが、そのように宗教を拒否するが故に、間違った宗教への知識が乏しく、ある意味で宗教に対する免疫が日本人には無いのです。

 

そうであるが故に、日本人はこの世に絶望した時、そこに漬け込むカルトの餌食にされてしまうのです。

 

「よくわからないけど騙されないだろう」と思っている人程学ぶ姿勢が無いため知識に乏しく、また自分は騙されているなどとは考えない為、実によく騙されます。

 

故に人は「正しい」ものを認識しなければなりません。「正しい」ものを装った全く正しくないものがあまりにもこの情報社会には蔓延しすぎています。

 

なので、私の言っている事は一意見であると考え、鵜呑みにはせず、皆が考える為の一石を投じられたらと思います。

大前提として

私はこれから、日本で「宗教っぽい」と言われるような事をガンガン綴っていくのだと思います。しかし、私はどこの宗教組織にも属していませんし、あくまでも中立的な立場を取ります。

 

そうであるがゆえに、私の意見は「私」の意見ではないのです。ただ真理から言っているだけで、ある時は宗教家が、ある時は哲学者が、ある時は科学者が仰っていた「事実」を話すだけなのです。それは「私」から発せられる意見ではないのでしょう。

 

そのような立場から、宗教や哲学、また科学の真理探究の目的は結局一つで、どこの宗派が正しい、どこの神が正しいなどと言うのは見当違いの発言であるという事を言っておきたいと思います。

 

 

ある宗教では「アッラー

 

ある宗教では「ゴッド」

 

ある宗教では「大日如来

 

ある宗教では「至上主」

 

ある哲学では「真理」

 

などと呼ばれる「かれ」が、本当は二といない一であるというのは、世界でも明るみになってきた事でもあると思います。

 

「真実はいつも一つ!」

 

とどこかの名探偵が仰っていたように、真理とは一つであり、あらゆる宗教がそれを別々の名で読んでいたというのは、真理に触れた事のある者からすれば事実にしか見えないのです。

 

故に私はどの宗教にも属していませんが、どの宗教をも信仰していると言っても過言ではないかもしれません。

 

真理に触れた宗教家、哲学者、科学者等は、皆同じ事を言っているのに、それを自分の理解の範囲に落としている信者達が「こっちが真実だ」と主張するだけなのです。

 

その真実に、少しずつ触れていきたいと思います。